ブロッコリー450gと、小田原城のつづき。

お腹空いたよ…。晩ご飯まだ食べてない。

絵本の中の大サーカス・クマの親子の玉乗りショー

リーメント 絵本の中の大サーカス クマの親子の玉のりショー

口唇ヘルペスが痛痒いの以外は、今日もわりと元気だった。

去年の今頃は、人生で一番の大不調だったし。

胴周りが痺れるのは未だに治っていないけど、痛くない日の方が増えているから去年よりはいいと思う。

多少でも健康が戻って来ただけで幸せや…。

 

朝ご飯は、またランチパックのオレンジとレモンを食べた。マーマレード味は、その後ぜんぜん見なくなってしまったな。

ランチパック

一緒に冷凍ブロッコリーも450g食べた。これで、健康管理アプリの中の人にも文句言わせない。あとはたんぱく質だ。

ブロッコリー450g

ハオルチア十二の巻の花がもう1つ開いていた。

ハオルチアの花

小田原城のつづき。

小田原城天守閣

常盤木門。

小田原城常盤木門

史跡 小田原城小田原城 常盤木門

 本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。

 門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に反映しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多門櫓・北多門櫓が不随する枡形門形式で再建されました(文久図、右図)。  明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多門櫓を再建しました。

 江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常盤木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示しています。また、日本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。

                        2020.03小田原城総合管理事務所

小田原城常盤木門

↓説明看板を読むと、二の丸は何度も地震で酷い目に遭っていたんだな。

不謹慎で申し訳ないけど、ここまで来るとウケを狙っているみたいで笑ってしまう。

小田原城二の丸跡

史跡 小田原城跡 二の丸跡
 江戸時代、多くのお城では藩主の住まいは本丸にありました。
しかし、小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため、小田原藩主の住まいは二の丸にありました。
 二の丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割がありました。
 二の丸御屋形は、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となりました。しかし元禄16年(1703)の地震により倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されています。その後、規模を縮小して再建されますが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられました。
 明治に入り廃城となった後、同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、大正12年(1923)の関東大震災でほぼ全壊しました。そして、その後、昭和4年(1929)に小田原第二尋常高等学校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転しましたが、残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。

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小田原城二の丸跡

カモメがプカプカしていたお堀の解説。

小田原城二の丸東堀

国指定史跡 小田原城跡 二の丸東堀
 小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。
 二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。
 二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。
 二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。
 なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。

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小田原城二の丸東堀

やっと真の目的地に向うことが出来る。寄り道が過ぎた。

つづく。

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