久々の背中痛と、坊っちゃんだんごと、騎西城の土塁のつづき。

昨日の晩~今日の朝は、脂っ濃い物を食べたわけでも無いのに背中の右側が痛かった。

激痛+お小水が赤くなる本格的な胆石発作では無く、じわじわ緩~く痛い感じで気になってなかなか眠れず…。

夕方頃からまた痛くなって来たような気がする。

マッサージチェア(快活CLUB)の揉み返しだとしたら月曜日も痛かったはずだし、やっぱり胆石なんだろうな💢

お昼ご飯の坊ちゃんだんごは出してすぐしまって、お茶だけ飲んだ。明日食べよう。

坊ちゃんだんご

唐突に3色人参サラダ作り途中。

3色人参

騎西城の土塁のつづき。

市指定史跡 騎西城土塁跡

土塁の移り変わり
 江戸時代初め(約四〇〇年前)の絵図を見ると、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・馬屋曲輪・二の丸と鉤の手状に構成され、本城(本丸)へ容易に攻め込まれないような構造になっています。さらに押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、防御堤となるべく土塁(黒い太線)が大手から本城までの全周を、延々と巡っていたことがわかります。
 寛永九年(一六三二)に廃城となった後の衰退は著しく、寛保年間(一七四一~四四)には本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(一八五四~六〇)に至ると城跡の竹林が開墾され、江戸時代末期にはほとんど畑となりました。明治・大正期には、土塁は図のようにT字形に残るのみとなり、県道が城跡を貫通した後はいっそう小さくなり、昭和四十年頃の写真では、わずかにその名残りをとどめています。
 源゛五、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の土塁(高さ三メートル)でこちらの低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶため、平成十年に復元延長したものです。

騎西城の土塁

 より高くより堅固に拡張された土塁
 発掘調査によると、土塁の高さは三メートル以上、幅は十メートル以上あったものと思われます。断面を観察すると、崩れにくいように灰色土と黄色土を交互に叩き固めています。また、積み方が一様でないことから、土塁築造後、拡張し修復されたものと思われます。
 騎西城は、越後の上杉謙信、小田原の北条氏にとって関東支配の前線基地として重要な場所でした。そのため、幾度か攻められ、それを凌ぐため堀はより広く、土塁はより高く築かれました。南に幅五十メートル
障子堀をもつ土塁は、攻める者に圧倒的な威圧感をもって対峙したことでしょう。

騎西城の土塁

 土塁とは
 土居ともいい、適(←敵?)の侵入を防ぐために堀を彫った土を盛り、土手状に築いたものです。古くは弥生時代の土塁が佐賀県吉野ケ里遺跡で確認されており、ムラの周囲に堀を巡らし、その外側に土塁が築かれています。
 その後、古代には大宰府を守る水城に、中世に至ると武士の館や城に盛んに用いられました。
 築城法の変化により、江戸時代ではその多くが、より堅固な石垣へと変わっていきました。

 加須市教育委員会

騎西城の土塁

土塁の向こうに模擬天守

騎西城の土塁

手前の道路は、県道38号線。

騎西城の土塁

模擬天守の建っている場所は、天神曲輪の一部だと思う。

元々本丸だった場所は、以前に歩いた時は何も無かったと思う。今もそうかな?

自分は腹痛で配偶者氏は腰痛で、この日は駐車場からすぐの場所をザッと見ただけで快活CLUBに向かってしまった。

家から近くはないけど車で行き易い場所だし、もっと元気な時に再訪したいと思っている。

騎西城の土塁

そういえば加須はうどんでも有名な街だけど、いわゆる武蔵野うどん(太麺を熱々の肉汁でかっ込む的な)では無い感じで、同じ県でもこんなに違うものなんだなーって…。

 

騎西城の話はおしまい…のような雰囲気になってしまったけど、まだちょっとだけづつく。

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