昨日は彩乃菜宴でお昼を食べた後、隣にある食の駅で約1週間分の野菜を買って、智光山公園を一回りして、途中のホームセンターで足りない物(洗剤等)を買って帰宅した。なかなか充実した日曜日だったと思う。
↓食の駅で売っていたレモンケーキ。これが凄く美味しかった。
最近はレモン味のお菓子が続いている。
小牧山城からのつづき。
「信長の野望 天翔記」だったか、清洲城には史実通り織田信友が居たと思う。
信友は特技に「暗殺」を持っていた。信長を暗殺しようとしたり、尾張国守護だった斯波義統を殺した人物だからだろう。
斎藤道三とか、松永久秀とか、宇喜多直家とか、梟雄と呼ばれる感じの武将には大体付けられている特技で、忍者系の武将には100%付いていたと思う。
たとえ全体の数値が平凡でも、「暗殺」を持っていれば(まさに織田信友のこと)とりあえず手元に置いていた。
数値が最低でも茶人、僧侶、宮司などの生業があったり、小説や漫画で知って愛着が湧いた武将達は「お伽衆」として召し抱えていたけど(何様だ)、やはりどう転んでもつまらない武将がいる。
牢人にさせておくと敵に召し抱えられて兵力になる可能性も出て来るし…で、面倒だから容赦なく暗殺要員に殺って貰っていたのです。
↑読み返してみると色々酷過ぎて笑う。
そういえば、無害そうな徳川秀忠にも「暗殺」の特技が付いていたけど、これは隆慶一郎の小説の影響だったと思う。とにかく陰険で残忍だったんだよな。
…そんな思い出深い(?)清洲城にとうとうやって来た。
お城の手前にある「信長公を祀るお社」。
小高い場所に祠があって、これがそうらしい。
右大臣織田信長公古城跡。
ここが本当の清洲城があった場所っぽい。
清洲城…碑?霊碑と読むの?土へんに霊。
解かり易くまとめられている案内板。
自分のような万年素人が迂闊に語るよりも間違いありません。
■ 清洲城の概要
清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明八(一四七八)年に守護所下津城が戦乱で焼失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。
この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友は、守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(一五五五)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄三(一五六〇)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますか゛、天正十(一五八二)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。
信長没後、天正十(一五八二)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西一.六km南北二.八kmもあったといわれています。
信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長十五(一六一〇)年、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」が残っています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。
■ 再建清洲城
平成元(一九八九)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、十六世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。
この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天守閣がそびえます。