夏季限定ささらがた(すいか)と、清洲公園

夏季限定ささらがたの西瓜味。

自分の中ではもうとっくに夏の気分が終わってしまっているので、買って来た翌日から急いで食べて行けば良かったと後悔している。季節外れ感が凄い。

味は、かなり西瓜で驚いた。熟れ過ぎて爆発した西瓜っぽい味というか。

夏季限定ささらがた(すいか)

残るは2味。

夏季限定ささらがた(すいか)

福耳とうがらしが特売だったので2袋買って来て、初めの1袋は種の他に白い筋まで取ったら全く辛くなくて拍子抜けだったので、今日は種だけにした。

切ったり取ったりしている間にカプサイシンが揮発しているのか、咳とくしゃみが止まらない…。

白いのを残して大正解。丁度いい辛さでとても美味しかった。

お昼に↓これぜんぶ独りで食べた。で、晩ご飯抜き。

ピーマンか人参を大量に食べておけば病気にはならないだろう(散々なってる)。

福耳とうがらし炒め

清洲城からのつづき。

東海道本線東海道新幹線の線路を越えたところに清洲公園がある。

清洲公園の信長像

いつもネットで見ていた信長像が目の前に。

「1936年(昭和11年)地元の篤志から寄付されたものです」案内板より。

清洲公園の信長像

帰蝶さん(濃姫)の像は、1992年(平成四年)に(株)加藤製作所様より寄贈されたらしい。

帰蝶さんの没年はよく判っていないみたいだけど、案内板では天文4年(1535年?)に生まれて慶長17年(1612年?)に亡くなった説になっている。

清洲公園の濃姫像

 清洲城公園の概要  

この公園は、「清洲村古城地図」(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間半)を包含する約五千坪(一六、五〇〇平方米)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正十一年開園されたものである。  

 清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長十四年(一六〇九)徳川家康尾張藩都を清洲から名古屋に遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同十五年より十八年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。

 尾張の中心都市であった清洲は、文明十年(一四七八)以来百三十年に亘る華やかな歴史の幕をひいて名古屋に生まれ変わったのである。  当時の臼引歌が残っている。

 「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」  

 やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址約二百十三坪(七七〇平方米)の地のみは、尾張藩清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。

 明治十九年四月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。  大正十七年(一九一八)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地五千六百三十四坪(一八、五九二平方米)を買収、大正九年県費補助事業として着工、同十年工事完了、同十一年開園した。公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は四万八千六百十九円であった。

 園内には織田家木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の雪見など風流の余情つきぬものがあった。

 昭和十一年には、故竹田鋹太郎氏の寄贈により、二十六歳桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、清洲のシンボルとなった。

 その後、清洲公園の姿は、昭和三十八年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和四十七年に始まった清洲西部地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和六十二年には五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は一四、三四三平方メートルとなっている。

 平成九・十年の二カ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。  

                                                                                                                      平成十一年三月

清洲公園案内板

清洲公園はパワースポットらしい。

■ 清洲城の概要  清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明八(一四七八)年に守護所下津城が戦乱で焼失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。

 この時期には尾張国守護代織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏尾張の上四郡を、清洲織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友は、守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(一五五五)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄三(一五六〇)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますか゛、天正十(一五八二)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。  信長没後、天正十(一五八二)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西一.六km南北二.八kmもあったといわれています。  信雄以降、豊臣秀次福島正則松平忠吉徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長十五(一六一〇)年、徳川家康清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」が残っています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。

■ 再建清洲城  平成元(一九八九)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、十六世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。

 この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天守閣がそびえます。

清洲公園年表

人間五十年…の碑もあった。

清洲公園「敦盛」

線路の下から清洲城

この後「清洲ふるさとのやかた」で御城印を買い、次のお城へ向かった。

清洲城

暇人なのに何故か時間が無くて、日付が変わらない内にと急いで打ち込んだから、誤字脱字が酷いかもしれない(後日チェックしよう)。

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