まだまだお片付けと、巣鴨猿田彦大神庚申堂

まだまだお片付け。

あまりにつまらなくて音楽を聴きながらやっていたけど、特に好きな曲が始まるとついつい聴き入ってしまい、ぜんぜん捗らなかった。

今日はおやつを食べ忘れたので、この前道の駅おかべに行く途中で食べた若鶏の半身揚げ(とんでん)の写真でも載せておこう。美味しかった。

とんでん若鶏の半身揚げ

巣鴨のつづき。

巣鴨地蔵通商店街

↑この写真の向かって左側が、巣鴨猿田彦大神庚申堂。

この辺はJR山手線巣鴨駅、都田荒川線庚申塚停留所(猿田彦大神庚申堂の近く)、都営三田線西巣鴨駅新板橋駅、JR埼京線板橋駅と、そんなに広くない範囲に電車と駅がこんなにある。

巣鴨猿田彦大神庚申堂

↓庚申堂。入れ替わりたち替わり参拝客がいました。

巣鴨猿田彦大神庚申堂

巣鴨猿田彦大神庚申堂 由来記
 江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。
武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なりよしす囲いの茶店
団子茶屋と称す。
石碑を見るに明歴三年と彫られ、又 古老からの聞き書きとして文亀二年(一五〇二年)に塔を建立高さ八尺なり然るに明歴三年正月世にいう振袖火事の大火おこり江戸市中九分通りを焼き払う、復興資材をひさぐものひきもきらが、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、ゆえに村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀二年の碑を塚の下に埋めたりと言い伝えを物語る、されは巣鴨庚申塚というは文亀十二年(遊歴雑記発行年)に至りて三百十四に及ぶ、ゆえに庚申塚とてその名高し」と書かれている。
 又、長谷川雪且(雪旦?)の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」にはこの庚申塚に中山道の立場があり旅人が茶屋で休息している様子が描かれている。
広重の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。
庚申様を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社としては伊勢皇太神宮の一画に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道祖神としての関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たものであり、当「巣鴨猿田彦庚申堂」もその好例であろう。
 前述のように文亀二年(一五〇二年)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明歴三年(一六五三年)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。
戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。
 ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過ごす、という祭りが流行した、今はすたれたけれども当庚申堂にもその名残りが偲ばれる。
昭和四十六年に御本堂を再建し、以降四十九年には御水舎、平成三年には山門も形を整え荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。
年に六~七回、庚申の日にはお祭りをして多くの信仰者を迎えている。
 御祭神は左の通りである。

  地津主 甲子大己貴神
  天津祖 猿田彦大神
  人津靈 己乙少彦明神
………

巣鴨猿田彦大神庚申堂

郵便局には、巣鴨地蔵通り商店街のキャラクター「すがもん」のポストがある。

すがもん郵便ポスト

ああ時間が無い。お風呂に入らねば。

とりあえず今日はおしまい。

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